水曜日, 12月 06, 2006

たそがれコーヒー学再訪

 僕は大学生のとき、子どもたちとキャンプに行ったり、お祭りをしたり、子どもたちとふれあう活動をするサークルに入っていた。地方で言うところの子ども会みたいなものだ。そのサークルでは、学園祭の時期に毎年文集を作っていた。(文集の名前は、学園祭の名前にちなんで「銀杏の木」だったと思う。)そのとき寄せたエッセーが、このブログのタイトルの「たそがれコーヒー学」だ。コーヒーとともに過ぎる時間、というようなテーマで書いた。先輩や友達に読まれたりして、恥ずかしいながらも、「おもしろかった」と言われてとてもうれしかった記憶がある。今読むと何と青臭いと思うけれど、当時の僕の精一杯がそこに見てとれる。あのやんちゃな子供たちは、どんな大人になっているだろうか?あの頃一緒に活動したみんなは?そして、ほろ苦い失恋の思い出。。。少し長くなるが、たそがれコーヒー学をもう一度ここに載せてみたい。


たそがれコーヒー学

スプーン2杯のインスタントコーヒーをマイカップに入れ、沸いたばかりの熱々のお湯をカップの七分目まで注ぐ。
しばし香りを楽しむ…。
「やっぱりインスタントは香りがよくないなぁ~」などとぶつぶつ言いながら、砂糖とミルクを準備する。
ミルクをほんの少し、砂糖は、スプーン1杯半、これが僕の好みの甘さである。
ゆっくりとかき混ぜる…。
砂糖はコーヒーにとけ、時間にとけ、僕の心にとける。
これを書いている今は8月、夏真っ盛り。そんな夏のたそがれ時にコーヒーを飲みながら、ふと思い浮かんだことを書き留めて、エッセイの真似事などしてみようと思う。

目の前にあるコーヒーなるこの飲み物は、何か格言めいたすごい奴だと思う。  
甘さと苦み、相反するものの程よいブレンド。
「そうさ、1つの存在の中に相反する2つの概念が共存し、それが両面的であり、相補的であることに重要な意味があるのさ。」などとしたり顔で語っている、ちょびひげのコーヒー氏が思い浮かぶ。
人間についても同じことが言えるのではないだろうか。
短所がまったくない(と思われる)人間はつまらなく、あまり魅力を感じない。それは、長所と短所は裏表の関係であると同時に、相互依存的なものだからである。
つまり、短所はある意味でその人の長所を際立たせる要素であり、この二つが同時に存在して、初めて本当の魅力が生まれるのである。
アメリカ文学の父、マーク・トウェインは、「ユーモアの源泉は、哀愁である。」と言っている。
また、シェイクスピアはハムレットの中で、「やさしくするには残酷でいなくては…」と書いている。
一見矛盾とも思われるこれらの言葉は、相互依存性の図式を的確に捉えていると思う。
よく、物事をひたすらプラス-マイナス、良い-悪いの分類にこだわり、二者択一的(オルターナティブ)な考え方しかできない人がいるが、すべてをそれで片付けてしまうのはいかがなものだろうかと思うのである。

しばし目を閉じてみる…。
窓の外では、元気なミンミンゼミ君が、声の限りに愛を叫んでいる。
好きな子の前では、何も言えなくなってしまうダメ男を今年こそ返上すべく、せみ君に習えである。
せみは、地上に出てから一週間の命と言われている。そんなせみと僕には、本当に一様な時間が流れているのだろうかなどと考えながら、コーヒーを一口飲みほす。
コーヒーの湯気の中にニュートンが現れ、「いかにも」とうなずく。
そこへ、「いやいや時間とはあくまでも相対的なもので、同時刻が定義できない以上、君とせみとが同じ時間を生きているとは言えないのだよ。」とアインシュタインが云々する。(絶対時間と固有時間)
“時間”については古今や洋の東西を問わず甲論乙駁されてきたが、本当のところはまだわからない。
そんな中で、アウグスティヌスの言葉は時間の本質を捉えた名言だと思う。
「時間とは何であるか。誰も尋ねなければ私は知っている。しかし、答えよと求められた時には、私は知らない。」

夏の夕暮れ時は実にすばらしい。
日中、張り切りすぎた太陽がばて始め、何となく気だるい空気が漂う。それは、脱力感とでも言うべきものである。
「ジージー」というあぶらぜみの声をバックに、「かなかなかな…」とひぐらしのソロが始まる。
そこに、素っ頓狂なミンミンゼミのハーモニーが加わり、最後に、蚊取り線香の煙でよろよろになった蚊の羽音が、メロディーにアクセントを付ける。
かくして、インセクトカルテットの演奏が夜を告げる。
この時分になると、わが潮学生寮の影の住人、デブにゃんこ先生が夜のパトロールを開始する。
肩で風きり、町を闊歩する。
貫録十分。「にゃん!」などと声をかけても、にらまれるだけである。
おやっ、前方にブルドックを発見。…側方通過。
前方にきれいなお姉さん発見。…徐行、一時停止。しばし猫をかぶり、借りてきた猫になる。
ごろにゃん、ごろにゃん。
何とも現金な奴である。しかし、憎めない奴でもある。何となく小生に似てなくもない。(苦笑)
でっかいあくびをした後、背伸びを2回。入念に毛づくろいをして、御自慢のしっぽをひょいと持ち上げる。
「なぜ猫(わたし)がこの世に存在するのか? 猫を猫たらしむるものは? 猫を構成する最も基本的な要素は?」
そんなこと知らぬ存ぜぬのでぶにゃんこ先生は、男のダンディズムを漂わせ、夜の街へと消えて行くのであった。

にわかに辺りが暗くなってきた。遠くで雷様が太鼓をたたいている模様。夕立がきそうな雰囲気である。
やがて、ポツリ、ポツリが指数関数的にザー、ザーに変わり、激しい雨がクールダウンを促す。
せみも泣き止み、夏が一時停止する。
雨音がすべてを包み込む。何となく懐かしく、何となくほっとする。
母親の胎内にいる時は、こんな感じだったのだろうかなどとおぼろげに思った。
そう言えば、つい先日電車の中で、似たような気持ちになったことが思い出される。
僕の隣に赤ちゃんを抱っこしたお母さんが座っていた。
この赤ちゃん、なかなかのわんぱくもので、じっとしているのがお気に召さない様子である。
ぐずって泣くと見せかけて、いきなりフェイントをかけて、「きゃっ、きゃっ」と笑い出す。
しばらくすると、小さなギャング君は攻撃を開始する。目の前の、ベビーカーをボンボカと蹴りだし、お隣の女子高生にちょっかいを出す。
そうこうするうちに、お母さんの雷が落ちてあえなく御用。
その後、お母さんに背中をぽんぽんとたたかれながら、すやすやと眠りに入っていった。
その時の彼の安心しきった顔。そして、わが子を見つめる母親の清んだ笑顔。それを見た時、何となく心がぽかぽかとして、何とも言えない懐かしさに包まれた。

あれこれとたわいもないことを回想してきたが、それにつけてもおやつはカールである。否、回想のお供にはやはりコーヒーである。
コーヒーはその場面、場面に応じて、名脇役を演じてくれる。ただ、ぼうっとする時、音楽を聴く時、読書をする時、誰かと待ち合わせをする時などなど。
喫茶店に入ると、待ってましたとばかりに、テーブルにコーヒーが運ばれてくる。
そこから時間と空間が始まる。
一杯のコーヒーが会話をつくり、人と人との距離を縮める。その片隅で、コーヒー氏はぼそっとつぶやく。
言葉では伝えられない気持ちがあり、言葉にしなければ伝わらない思いがあるってことを。
いつだってコーヒー氏はセンチメンタリズムを内包している。そういう奴である。

そんなことを考えながら、夏のたそがれ時は過ぎてゆくのだった。

※これは、銀杏の木(1997.11)に掲載した文章を加筆、修正したものです。

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